これは小樽の街で繰り広げられる私の妄想です。
事実と妄想が混じりあった私の頭の中の世界……
ご紹介するのにちょっと勇気が要ります。
でも、たかが妄想、妄想ですから。
そこのところよろしくです!
私はいま、一人でカフェにいる。
夕陽の沈む頃になると無性にこの古い建物を眺めたくなって
ついついここに来てしまう。
海側には一面のガラス窓があり、そこに並ぶカウンター席に私はいつも座る。
できれば右端に、誰かがいれば左端に。
誰も来ないような悪天候のときは、堂々と真ん中に。
今日はまだ誰も来ていないが、
きっと何人かは来るはずだ。
今日はいい青に暮れる予感がする。
北運河の目の前にあるこのカフェに私が通い始めたのは一年前。
ひっそりし過ぎていて、カフェだということに気づかなかった。
ある日、店から一人の男性が出てきたところを目撃。
そばに寄ってよくよく見ると、小さな小さな表札のような看板がついていた。
「hsk1921」
石造りの蔵を改装して作られたカフェ。
外から見ると、ほこりをかぶった古い石蔵なのだが
中に入ると古い木製のテーブルや椅子がなんとも言えない艶を放ち、
磨き上げられた床板にはほこり一つないことに驚いた。
このカフェに立つのは、おばあさんだ。
いつもロングスカートに白の割烹着。
歩くスピードはゆっくりだが、厨房での動きはきびきびしていて
無駄がない。
名前はシノさんと言うらしい。
ネームプレートに「シノ」とある。
メニューはとても少ない。
コーラ
ファンタグレープ
メロンソーダ
バニラアイスクリーム
クリームソーダ
日替わりドリンク
いつもはメロンソーダを注文するが、
今日は初めて日替わりドリンクを頼んでみた。
何が出てくるのか……
徐々に日が傾いてきた。
私が愛する建物は夕陽を体一杯に浴び、輝いている。
この建物はあと数年で100歳を迎えるそうだ。
錆びているところはあるものの、
背筋はピンとして威風堂々としている。
私はこの建物を見るのが好きだ。
建物の姿が映り込んだ水面を見るのが好きだ。
黄金から紺碧へと染まりゆく小樽の夕暮れに混じり合い佇む、この建物が好きだ。
そんなことを考えているうちに
「おまたせしました」とシノさんが
日替わりドリンクを運んできた。
あら、いい香り。
今日のドリンクはコーヒーだった。
(コーヒー、出せるんじゃん!)
苦めのコーヒーはとても美味しかった。
豆は何だろう……
そんなことを考えながら
少し左手に見えるこの建物を眺めている。
うっとりするような夕暮れ。
この建物を眺めるためだけにあるようなカフェに
今日は私一人。
いや、私とシノさんの二人。
カフェには音楽はない。
近くを通る車の音、港から聞こえてくる様々な音。
シノさんが食器を片付ける音や歩いて床をギシギシ鳴らす音。
そしてこの建物が一日に5回発するあの音が
このカフェの音楽。
私はぼんやりと見つめ続けている。
この姿を誰かに見られたらはずかしい気もする。
例えばそれは、大好きな先輩が体育館でバスケなんかをする姿を
物陰からこっそり見つめる女子中学生の気分とでもいうのだろうか。
そんな私の姿を誰かに目撃されたら、
はずかしくてダッシュでどこかに消えてしまうだろう。
今日はシノさんと二人。
シノさんと私はたぶん同じ先輩が好きなのだから、はずかしくない。
空は深い青。
一日のこのわずかな時間を、私は私の人生で何度感じてきただろう。
そして、これから何度、見ることができるだろう。
美し過ぎると悲しくなる。
人の心って不思議。
最後の一口の冷めたコーヒーは特別に美味しかった。
日がとっぷり暮れた。
さあ、帰って晩ご飯の支度だ。
レジに行き、日替わりドリンクのお金を払いながらシノさんに聞いてみた。
「こんなに美味しいコーヒー、定番メニューにしないんですか?」
「気分が良くないと、ダメなの、コーヒーは」
わかるような気がする。
今日は気分が良かったんだ……シノさん。
「ごちそうさまでした」
「どういたしまして、お気をつけて」
扉を開けると、小さな表札のような看板が目に入った。
裏返しになっていた。
「CLOSE」
どうりで誰も来ないはずだ。
今日のような最高の夕暮れの日は
忙しくしたくないということなんだろうか。
私はギリギリセーフだったということなんだろうか。
とにかく……
シノさん、ありがとう。
今日はもうバイバイ、私の大好きな北海製罐。
これは、私の妄想です。
北海製罐を眺めるためだけのカフェがあったらいいな、と思って……