についてご紹介しました。
今回はその続きです。
小樽出身の画家・彫刻家石澤ミヨさん遺作展が6月20日(土)〜28日(日)まで開かれました。
一般公開の前日6月19日(金)、緑がまぶしい晴れの日に記者発表とオープニングセレモニーが行われました。
会場は、小樽運河プラザの3番庫。
開かれた鉄の扉から中に入ると、淡い色合いの松林の絵が目に飛び込んできて
外の景色がまるでそこにあるような雰囲気でした。
穏やかな空気の中セレモニーが始まり、
誰も会ったことのない石澤ミヨさん、そして初めて見る作品に、来賓の方々から温かい言葉が贈られました。
小樽高等女学校・小樽桜陽高等学校同窓会「桜陽会」会長 稲垣氏の挨拶
この展覧会が告知されるまで小樽の誰もが知らなかった、と言ってもいいくらいのミヨさん。
会期後半に「ミヨさんを知っている人はいらっしゃいましたか?」と実行委員に尋ねたところ、
「手宮尋常小時代の教え子という方がいらっしゃしました」とのことでした。
この遺作展の主役は石澤ミヨさんとその作品であることは言うまでもありませんが、
隠れた主役がキャスティングされていました。
石澤ミヨさんの後輩である、小樽桜陽高校美術部と桜陽新聞局の生徒さんです。
報道記者発表では、来賓の挨拶の後に美術部員がインタビューを受けました。
最前列ではその様子を取材する新聞局員の姿があります。
美術部顧問の森平先生は陸上部の顧問でもあります。
今日は陸上部のあとにこちらへ駆けつけたため、ジャージ姿。
フォトセッションの様子。来賓と一緒にカメラマンのリクエストに応えます。
ステージから展示コーナーに場所を移し、ポーズをとります。
こちらにはミヨさんの作品と現美術部員の作品が並んで展示されています。
ここにある現美術部員の作品はすべて、この企画が決まってから描かれたものです。
ミヨさんの作品は若い頃に描かれた自画像と小樽高女の校舎を描いたものの2点。
現美術部員の絵は、自分の好きなテーマ、空想を交えたものなど、思い思い自由に描かれていました。
桜陽校美術部の同窓会です。
「この展覧会を経験していかがでした?」という質問に
「もっと大作を描きたくなりました!」という声を美術部員から聞くことができました。
ミヨさんに後輩の声は届いたでしょうか。
今度は新聞局カメラマンのリクエストに応えてポーズ。
桜陽新聞局員は全部で3名。
3年生1名と1年生2名で、全員が今年の入部。
新聞局に実行委員会から今回の記者発表の招待状が届いたそうです。
新聞局は月に一度のペースで「桜風」を発行。
今回取材した内容は7月に掲載になるそうです。
「将来は報道関係の仕事につきたいんですか?」との質問には、全員が 「ノー」の答え(びっくりしたよ〜)。
希望の職種は不思議と教師と看護士に集中しました(これもびっくりしたよ〜)。
良い先生に指導を受けているということでしょうか。
記者発表会場で細かくメモを取っている女性がいらっしゃいました。
「どちらの記者さんかしら?」と思っていたところ新聞部の顧問・伊藤先生でした。
生徒さんたちには、素晴らしいお手本ですね。
大人の本気のイベント、そして本気の記者発表の場に
現役高校生が加わったことは意義のあることでしょう。
少し戸惑いながらもキラキラと目を輝かせていた桜陽高校の皆さん、素敵でしたよ〜。
実行委員さん、本当の主役は高校生の皆さんなんでしょう?
会期中のスクープ!
消息不明だった院展入賞作「少女」が見つかりました!
石膏像を持ってきたミヨさんの親友の弟・斉藤さんと実行委員の上村さん
●石澤ミヨさんについて
画家・彫刻家の石澤ミヨさん(1921〜2013)は、1921年に小樽に生まれ、手宮西尋常小、小樽高女(現小樽桜陽高校)を経て札幌高女(現札幌北校)専攻科へ。戦時中には母校手宮西尋常小の教諭として3年間を過ごしました。
その後、絵画への情熱を抱いて上京し、画塾に通いますが、石井鶴三氏の彫刻に衝撃を受け、32歳で東京藝大彫刻科石井教室に入学。在学中に院展に3回連続入賞、その後院友となり、卒業作品が同大学に買い上げられるなど、その才能は高く評価されました。
卒業後、特許庁で働きながら我孫子にアトリエを構え、創作活動を続けます。60歳を目前にして右肩に大きな怪我を負い、鑿(のみ)を絵筆に持ちかえて自宅から見える赤松林の定点制作が始まりました。92歳の生涯を閉じるまで絵筆を持ち続けました。
生前は二度個展を開いた他は、作品を一般に公開せず、売られたものは、一点もありませんでした。没後、藝大同窓生の岩村守さん(元玉川大学教授)によって数多くの作品が発見されました。2014年に我孫子のアトリエで最初の遺作展が、ついで2015年には故郷小樽で「石澤ミヨ遺作展・小樽〜80年目の同窓会。おかえりなさい、あなたが愛した故郷小樽へ」が開催されました。